協会の活動状況・会員からの寄稿
NPO日本ウズベキスタン協会創立10周年記念
中央アジア周遊8日間ツアー記録
2008年9月17〜24日
キルギスタン/カザフスタン/ウズべキスタン3ヵ国

*時刻は現地時間
【目次】
9月17日(水)……1ページ
9月18日(木)……2ページ
9月19日(金)……3ページ
9月20日(土)……4ページ
9月21日(日)……5ページ
9月22日(日)……6ページ
9月23日(月)……7ページ
9月24日(火)……8ページ

■9月23日(火)快晴 20℃ 32% タシケント
08:30  朝食、フランス人団体とかち合い座席なし。ウエーターに言って合い席さてもらう。パン各種、トマト、胡瓜、西瓜、メロン、ドライフルーツ、ジュース各種、コーヒー、紅茶(すぐなくなる) コンチネンタルに近いメニューで肉卵不足。
09:30  バスで市内観光へ。
<ガイドの話>
1 市は今年2200年祭を迎える。旧市街は大昔からだが、新市街はロシア時代にできた。
2 1966年の大地震で3千人が死に、旧市街は破壊された。
3 1972年に地下鉄が開通した。路線は3ルート。

10:00  立体交差点の広場にサーカスの常設館がある。それを過ぎてイスラム神学校クケルダシュ・メドレッセに着く。下車見学。
<ガイドの話>(神学校の職員が案内)
1 神学校の名前は「王さまの父の兄弟」の意。15世紀には神学校としてモスクを併設していた。17世紀には商人宿泊所、19世紀にはロシアの要塞だった。独立後、イスラム教専門高校として再発足した。
2 ロシア革命以前は教室が35あり、定員は80人だった。今は1階を教室、2階を寄宿舎に使っている。生徒数は160人、普通教室は24人ずつ、個人授業は2人ずつ。朝8時から午後2時50分まで。イスラム教以外に言語、文学、地歴、書道を教える。16歳から4年間。卒業後イスラム専門大学のほか一般大学にも進学する。
 空いている書道教室に入り、アラビア語カリグラフィーの実演と作品展示を見る。
 書道の先生が絵ハガキに希望者の名前などを竹ヘラの一筆書きで書いてくれる。1枚1,500スム。

10:40  出発、片道4車線の民族友好通を行く。左側は近代的なマンション、右は貧民窟に続いて経済省の高層ビル、民族友好広場にコンサートホールがある。大統領官邸、国立美術館前で右折し独立広場(元レーニン広場)を通過する。
10:50 歴史博物館を下車見学。
<ガイドの話> (学芸員の説明)
1 ここはレーニン博物館と言った。写真撮影は7,000、ビデオは10,000スム。
2 ウズベキスタンの国土は44万7千平方キロ、中央は砂漠、西は草原、東は山岳で最高峰は4,425m。アムダリア、テルダリア両河がアラル海に注ぐ。アラル海はソ連時代に綿花栽培のため灌漑用水を取ったので水量が減り枯渇しつつある。
3 12州のうちブハラ州で石油、ガスが採掘される。首都のほかサマルカンド、ヒワ、ブハラが大都市で、アフガニスタンと国境を接している。
4 館内展示は石器→鉄器→銅器→仏教→イスラム教の時代順。古代テルメスで発掘された紀元後1〜3世紀の僧を従えた釈迦の像が有名。
5 ユルタでも一般家庭でもウズベク人は床に座って食事をする。だからちゃぶ台を使う。コーランを床に座って朗読するには見台に乗せる。

11:50  出発、途中、ホテルに寄ってから花屋で花束と献花の花を買う。
12:40  ファズー墓地、葡萄の実が残る棚の下を通り奥の日本人墓地へ。草花が咲く長い参道では女性清掃員が草刈りをしている。抑留者の1人大塚武氏(大正15年生まれ、陸軍に志願した。終戦後シベリアからウズベキスタンに送られた40,000人の将兵の1人)を先頭にお参りする。気温28℃で日差しは強いが、湿度34%だから日蔭は心地よい。
 日本人墓地には墓地の地主のお孫さんが清掃を終えて待っている。門を入ると、「永遠の平和と友好不戦の誓いの碑」に花束を捧げる。碑の裏には「1990年5月23日 日ソ親善協会福島県支部」と79人の埋葬者氏名が記されている。
 墓地には出身都県と犠牲者氏名を彫っただけの平石が整然と並び、1本ずつ献花した。石井委員長が笛を吹き「荒城の月」「五木の子守歌」など懐かしい故国の曲で慰霊した。
 墓地の奥には石のモニュメントが建てられ、「第二次世界大戦終戦50周年を記念しウズベキスタン共和国内日本人墓地の鎮魂の碑を日本とウズベキスタンの協力により建立する 1995年10月1日 日本ウズベキスタン友好議員連盟 福島県ウズベキスタン文化経済交流協会 ウズベキスタン国際文化教育交流国民協会」の碑文が読み取れる。塀に沿って国内各地の収容所ごとにタシケント9+9、アンタレン138、フェルガナ2、ボスタンディクスキー13、ベガワート146、チュカマ32、カガン7+158、コーカンド240と死亡者数を彫った石板が並べてある。園内に桜の若木が植えられている。
 墓参を機に墓守ファズー・フルランさんに対しお礼のカンパをした。
13:25  出発、墓地の斜め向かいの白い建物の前に日本語で「1946年にウズベキスタンで生活した日本人の記録展示」と張り紙がしてあった。早く気がつけばのぞけたが、時間がない。
 広い道に出ると、右に大きな煉瓦工場があり、大塚さんら日本兵はここで働いたという。当時この道は狭くて左側は粘土の丘だったとも。南に行く鉄道のヴォグザル駅近くにアルコール工場やセメント工場ができた。左に10階建てアパート群。
<ガイドの話>
1 もともとウズベキスタンは大家族制だったが、今は核家族になった。昔は5〜10人の子供がいたが、今は平均2.5人。末子が両親と住む慣行だ。
2 平均寿命は男65、女70歳で、年金は男60歳、女55歳から,平均100ドル受給する。物価特に食糧の高騰でサラダ油2倍、米3倍になり生活は苦しい。
3 野菜と果物は豊富、日差しが強いから甘くなる。10月には綿花の収穫があり、生産量は世界第5位、輸出は第2位。養蚕も盛んで絹を欧州に輸出していた(シルクロード経由)。

13:45  北へ行く鉄道ワグバル駅前の中国飯店で昼食、間もなくサマルカンドからバスで到着したウズベク周遊組と合流する。
 メニューはもやしと肉、大根風と人参のなます、白菜漬物、麻婆豆腐、チンジャオロウス、川魚煮、カリフラワー、卵とトマトのスープ、ご飯。ビール5,000スム。
14:50  出発して10分でホテル帰着。小休止してデパートショッピング組とナヴォイ劇場直行組の二手に分かれる。
16:00  デパート組出発、ナヴォイ劇場の向かいの中央デパート・ツムに入る。
 ドライフルーツは1kg当たり、アプリコット(杏)が9,400スム、レーズン(葡萄)が12,800スム、かご入りミックスが5,000スム。
 漆塗り中型スプーン6,000スム、絹スカーフ11,700スム、民族帽9,100スムなど。
17:00 ナヴォイ劇場の見学。
<ガイドの話>(職員の案内)
1 ここは中央アジア最大のオペラとバレーの劇場で、1946年に抑留日本人の力で出来上がり、大地震にも崩れなかった。年に35曲のオペラと20曲のバレーを上演する。中でも「蝶々さん」は50年間打ち続けてきた。
2 8年前に「夕鶴」をかけた時は座席だけでなく床に座る観客まで満員盛況だった。若いウズベクの俳優歌手が出演する。専属歌手49人、バレリーナ80人、オーケストラ72人、職員と裏方600人いる。専属俳優は毎秋日本公演に行く。この秋はバレリーナが来週火曜日に愛知県豊田で上演する。
3 大劇場の横に小ホールが並ぶ造りで、小ホールには日本人職人が作ったブハラ王宮と同じ浮彫が壁に施されている。

17:30  館外に出て正面向かって左側の壁面にあるレリーフを見る。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民がこのアリュシャル・ナヴォイ名称劇場建設に参加しその完成に貢献した」と日露ウズベク語で彫られている。
 この間に電気配線工事を担当した大塚氏は電気設備を見せてもらう。また、夜のバレー公演の特等席チケットを入手した会員は3,000スムという安さに驚いていた。
18:00 2階レストランで交流パーティー。
<嶌会長の開会あいさつ>
 本日は初代駐日大使で商工会議所会頭のシャイコフ氏はじめ来賓をお迎えして、日本ウズベキスタン協会設立10周年記念パーティーを開催できたことに感謝する。わが協会会員500人のうち60人が今回の親善訪問旅行に参加している。協会は10年間に月2、3回の割でイベントをやってきた。2001年にはこの劇場でオペラ「夕鶴」を上演し、今年4月にはアトラス織のファッションショーを東京で開催し1万人の観客を集めた。この席には日本語のわかる留学経験者が多数いらっしゃるので、お互いに話しをして交流の実をあげてほしい。

<シャイコフ会頭あいさつ>
 10周年おめでとう。このパーティーに出席できてうれしい。我が国は独立17年目を迎えたが、協会の10年はこの中に含まれ、積極的に活動して両国の友好に貢献してくださった。この機会に協会メンバーに深い感謝を表明する。留学生へのご支援、日本語教育活動へのご協力に敬意を表する。私が駐日大使として赴任した時が協会の発会式だった。その頃、一般にはウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタンなど区別がつかなかったが、協会の活動のおかげでウズベキスタンは日本で知られるようになった。未来のある国と理解していただけた。
 皆さんのご健康と協会のご発展をお祈りする。100周年もご一緒に祝いたい。

<平岡大使あいさつ>
 日本と中央アジアとの関係は、古来シルクロードを通じて結びあってきた。正倉院の宝物もシルクロードで日本にもたらされたものだ。1991年独立以来、両国の関係は良好で、昨年は甘利経産相、今年は額賀大臣が来られ、ナヴォイ劇場の建設はじめ今回の皆さんの訪問も親しい間柄の象徴になる。協会のますますのご発展を祈念する。

(嶌会長が大塚氏を紹介し、大塚氏があいさつする)
<大塚武氏あいさつ>
 私はタシケントに在住した457人の1人で今年82歳になった。この劇場の建設に携わって両国の懸け橋になれたことはうれしい限りである。劇場建設に従事した仲間の半数は残っていると思う。劇場の裏手や電気室を見せてもらって、電気配線を担当した当時を思い出し感激している。今後も両国のために活躍してゆきたい。

(ウズベキスタン日本庭園への豪華なうちかけ2点、着物2点、袴と人形1点の贈呈式を終えて)
<日本センター代表あいさつ>
 日本庭園はウズベキスタンの中で日本の心を知ることができる場所である。ここへ新しい着物と日本人形を送って頂き感謝に堪えない。

18:25  乾杯して立食パーティーに移る。ウズベキスタンの対日関係者、在留日本人、日本留学ウズベキスタン青年、日本センターで日本語を習っている子供たちなどにぎやかに交流した。
 この間、民族楽器の演奏、民族ダンスなどの披露があって座を盛りたてた。
19:45 閉会してホテルに帰る。あす朝の出発は早いので、荷物をまとめ早めに就寝する。
(松永 太)
2009年1月10日(掲載)
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