協会の活動状況・会員からの寄稿


おじいさんのおかげで好きになった日本

タシケント国立東洋学大学 1年 アミノヴァ ナディラ
 
子供の時から私のおじいさんは私たちと一緒に住んでいました。わたしのおじいさんは建築家で、たくさんのビル、映画館、劇場、美術館などを建てました。彼は優しくて、一日でも彼が家にいない時、私たちは寂しくなりました。また人を助けることが好きで、困っている人をいつも援助していました。私たちに問題があれば、彼は一番良いアドバイスをくれました。私はおじいさんの話を聞いて日本語に興味を持ち、「将来絶対に日本語を習おう」と決心しました。
 私のおじいさんは1939年にナボイ劇場を日本人と一緒に建てました。その時ソビエトは日本人が勝手に住むのを禁止していました。私のおじいさんは政府に手紙を書いて、一緒に働いている日本人を、私たちの町に住ませました。その中に私のおじいさんと歳が同じ日本人がいて、とても親しくなったそうです。一番面白いのは私のおじいさんは日本語がわかりませんし、その日本人もウズベク語もロシア語も分かりませんでした。ではどうやって友達になりましたかと思うでしょう。二人は心と心であるいは身振り手振りで話しました。時間がたつとお互いの言葉が少し分かるようになって、お互いをもっとよく分かりあいました。
  ある日おじいさんに熱い樹脂がはね返り、彼は胸を火傷してしまいました。医者はみんな「長く生きられません」と言いました。おばあさんはたくさん泣いて、失望していました。しかしおじいさんの友達の日本人だけは
 「希望をもってください、私の父は医者で、私も少し医学を知っています。」
と言って治療を始めました。おじいさんの火傷は随分ひどくて、外から心臓を見ることが出来るくらいでした。本当に危ない状態でした。日本人の友達は、
 「 20日間生きれば、元気になります。それまでは・・・」
と言って毎日一生懸命頑張りました。仕事の後で、毎晩家の戸を開けておばあさんに手を上げ、「元気ですか」と聞きました。おばあさんは「いいえ」と首をふりました。20日間このような事が続きました。21日目の夜、おばあさんは少し笑って、「危ない状態は抜け出しました。」と言い、日本人は嬉しそうな顔をして微笑みました。時間がたち、おじいさんはまた仕事を始められるようになりました。日本人の友達のおかげでおじいさんは元気になったのです。おじいさんは、
 「 私の友達は本当の友達だった。その人がいなければ、私は今生きていないかもしれない。彼が私にしてくれたことは本当に奇跡のような事だった。私はそのことを決して忘れない。彼は人生をもう一度くれた。残念なことに彼は国へ帰ることができずに、ここで死んでしまった。」
と言いました。
 おじいさんは火傷の後56年生き、毎年友達の死んだ日にお墓へ行っていたそうです。お墓はタシケントの「ヤッカサライユ」と言う墓地にあります。そこには第二次世界大戦後に日本に帰る事が出来なかった80人の日本人の遺体があるそうです。おじいさんが生きていた時、私に「日本語を勉強して、友達の家族を探してくれ」と言いました。今おじいさんはいませんから私は彼らに会って私のおじいさんにしてくれたことを話し、「皆さんのおじいさんの体は今ウズベキスタンにあります。」と言いたいです。
 私が日本へ行って話をしたらおじいさんと友達の霊も嬉しくなると思います。おじいさんの話で私の夢は日本で勉強することになりました。いつか絶対に日本で勉強し、その後で日本の本をウズベク語に、ウズベクの本を日本語に訳して出版したり、自分の本を作ってみたりしたいです。その本は「本当の友達」という本になります。その本におじいさんと日本人の友情について書きたいです。おじいさんと日本人が仲良くなれたのは日本人とウズベク人の文化も生活も、心と心も似ているからかもしれません。私も日本人と本当の友情をつくりたいです。私のおじいさんと日本人のように。

「第 2 回ウズベキスタン日本語エッセイコンテスト 1 位入賞」
 
2005年6月29日(掲載)
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