協会の活動状況・会員からの寄稿
夕鶴が舞ったナボイの夏

ユーラシア外交の裏に抑留者の苦悩(嶌 信彦)

 ウズベキスタンの首都,タシケントの中心街にビザンチン様式で建築された重厚な国立ナボイ劇場がある.8 月 27 日の夕,そのナボイ劇場で涙しながらオペラを鑑賞する日本人たちがいた.実は,第二次世界大戦後,満州からタシケントに強制連行され,捕虜としてそのナボイ劇場建設の総指揮にあたった永田行夫さん( 79 )ら抑留者の仲間たちだった.演目は木下順二作,團伊玖磨作曲のオペラ『夕鶴』.本来なら團氏自身が指揮をとることになっていたが,今年 5 月に突然亡くなられたため,團氏の追悼公演ともなった.

 永田さんは,奉天の第 10 野戦航空修理隊で終戦を迎え,しばらくしてから貨車でタシケントへ連れて行かれた.当時 24歳ながら捕虜収容所では大尉だったため隊長となり,20 歳から 30 代まで約 450 人の指揮をとりながら劇場建設を完成させたのである.収容所では麻雀パイ,花札,バイオリン,マンドリンなどを作り生活にうるおいをもたせるとともに,劇場建設では器用で勤勉な日本人の作業姿を見せ現地人に尊敬された.この劇場はその後の二度の大震災にもビクともせず,公共建築の中で唯一残ったことから,ウズベキスタンに日本人伝説が言い伝えられ,日本人を独立後の建国モデルにする大きな要因にもなったといわれる.

 ウズベキスタンは 91 年,旧ソ連から独立した中央アジアの中心的存在で,面積は日本の 1.2 倍,人口は 2,200 万人を擁する.タシケントはその首都で 220 万人,地下鉄二本が走り,モスクとバザール,ビルと近代的店舗が混在する大都市だ.さらに足を延ばしサマルカンド,ブハラ,ヒワといった古代シルクロードの中心地に入ると,東西文化のるつぼ,文明の重み,歴史の奥深さを肌で感じとることができる.紀元前はペルシャやギリシャ,紀元後はローマ,トルコ・イスラム,モンゴルなどが争奪を繰り返し,19 世紀以降は旧ソ連の支配にあった.15 ,6 世紀の大航海時代が始まるまでは,長安とローマを結ぶシルクロードこそが世界の中心交通路でもあり,そのど真ん中に位置するオアシス国家,ウズベキスタンはまさに戦略的要衝の地だったのである.

 その中央アジアが 90 年代前半から再び世界から注目されだした.ポスト中東の石油の宝庫としてカスピ海西岸のバクーやアゼルバイジャンなどとともに中央アジアの石油,天然ガス,石炭,ウラン,希少金属が豊富なためだ.特にウズベキスタンの金,綿花は世界有数の生産量を誇っている.

 さらに冷戦崩壊後の中央アジアはロシア,中国,インドそしてイスラム原理主義の拠点などに囲まれ,新たな地政学上の戦略要地として見直された.また,発展途上国の人口大国と隣接しているため,将来の物流や生産拠点になると見られ,欧米諸国は投資先としても注目,大物閣僚や政治家を送り込む「ユーラシア外交」を展開し始めている.これに対抗してロシア,中国はウズベキスタンなどと協議の場を設置したりしている.このため,日本も 90 年代後半になって,ユーラシア外交を唱え始め,ようやくこの地を重視しだしたのである.

 しかし,欧米やロシア,中国などの戦略的目配りに比べると,日本はまだまだである.一時は旧大蔵省 OBが,ウズベキスタンの国づくり精神を意気に感じ,独自の援助を続けてきたが,最近はバブル崩壊の影響もあってか少し息切れし,国家戦略としての位置づけも明確でない.ただ,ウズベキスタン側の日本に寄せる思いは熱く,日本語を学び将来の国づくりに役立ちたいと考える学生は,ゆうに 2 〜 300 人に及ぶほどである.明治維新の頃,2 ,30 代の志士たちが建国に燃えた精神や志は,多分いまのウズベキスタンの若者と似た熱気に包まれていたのだろうと思わせるだけに,日本は欧米に顔を向け,経済だけに思いを馳せるのでなく,もう少しアジア,それも歴史と文化でつながりの深い中央アジアにまで視野を広げて良いのではなかろうか.

 今回の『夕鶴』公演は,国際交流基金が初めての大がかりなユーラシア文化交流として主催したもので,ウズベキスタン,カザフスタン両国で日本人指揮者,歌手,演出家たちが大きな評価を受けた.また,この公演の準備過程で NPO 日本ウズベキスタン協会(電話:03-3593-1400)のボランティアや在日ウズベキスタン留学生がシンポジウム開催やオペラの字幕作りなどに協力,人的ネットワークの輪を広げることにも役だった.

 ナボイ劇場の公演を終えた後,この『夕鶴』公演ツアーに参加した日本人約 100 人とウズベキスタン関係者たちが,同劇場のレストランで交流会を行った.永田さんらツアーに参加した抑留者の人々は,自ら建設した劇場で約 50 年ぶりの盃をあげることができたのである.「当時の最大のつらさは,生きて帰れるかわからないことだった」という永田さんの胸に去来した苦しい当時の思い出話に聞き入るウズベキスタンの若者たちの顔が印象的だった.

 出展:World Watch
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