2010.10.25 |
第 105 回トークの会報告 |
【講 師】 |
ヌルマトヴ・ベクゾット |
【日 時】 |
平成22年10月25日(金) |
【テーマ】 |
文学からみた「ウズベキスタンとは?」 |
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▽ 「あなたが外国の人にあなたの国や文化をより深く理解するために3つの小説や詩をあげるとすると何を挙げますか?」
BBCワールドレポートのこの質問を見て以来、ベグゾット君(横浜国大経営学部在籍)は「ウズベク人とは?」「どういう小説がウズベク人を表現しているか?」をずっと考えてきました。
今回のトークの会はその集大成で、ベグゾット君の流暢な日本語、適切な映像とわかりやすく気合いの入ったレポートでした。それに続くトークでは若い人たちも参加して大いに盛り上がりました。
▽ 日本ではあまり知られていないウズベキスタンの文学なのでベグゾット君のあげた1つの民話と3つの小説、それに関してのベグゾット君の見たウズベク人の性格をあげておきます。
▽ 1つ目は1000年以上語り継がれている民話「アルポミン」──勇士と恋の物語で男は勇敢で大胆だというお話。
2つ目は「ボブルノマ」インドでムガール帝国を創立したバーブル(1483〜1530年)が書いたもの。バーブルはどこへいっても悩まないでその場に対応していく。ウズベクのムスリムが穏やかで、飲酒も弾力的なのはウズベクの人の一面だというのです。
3つ目はアブドウッラー・カーデイリ(1894〜1938年)──「過去の日々」──スターリン大粛清で暗殺された小説家。ウズベク人の人たちがバラバラでまとまりにくい一面を示す小説です。
4つ目はシュルク・ホルミルザエヴ(1940〜2009年)──「ウズベク人の性格」という短編です。ウズベクを旅した人はみな感じるウズベク人の親切さ、寛容さ、ホスピタリテイを示す小説です。
▽ ベグゾット君の意見によればウズベク人は「勇敢で柔軟性がある、人々の心がバラバラではあるが、親切で寛容」ということになるのですが、出席していたほかのウズベクの若者たちも小説の選び方やまとめ方には賛成のようでした。
▽ 今回のトークの会はウズベクの留学生ばかりでなく日本の学生も参加してくれました。彼らも巻き込んでいつも以上の活発な意見交換がなされました。
「ウズベク人の性格」では親切にしてくれた人を騙す若者たちが出てきますが、それに関連して綿花収穫時の労働奉仕のことが話題になりました。日本にはない制度ですし、ウズベクの留学生たちの中でも捉え方がさまざまです。やはりノルマが厳しく満たないときは水を加えたり異物を入れたりするようなこともあるようですし、先生の口利きで免れたり、あるいはまじめにいい経験だったという留学生もいました。
また日本人からは「ただノルマを与えられるだけなら、日本人でもごまかしはあるだろう」という人から「仕事ならまじめにやる」という若者まで、いろいろな議論が飛び出し、老若男女、国内外の人たちのトークの場が繰り広げられました。
▽ 参加した日本人に「日本人の性格を代表する作品、作家をあげるとしたら?」とのトークに対して、「源氏物語」、「徒然草」、川端康成、司馬遼太郎、村上龍、山本有三などとまちまちに挙がりました。難しいですね。
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2010.09.17 |
第 104 回トークの会報告 |
【講 師】 |
エルガーシェフ・サンジャル・アンバーロビッチ |
【日 時】 |
平成 22 年
9 月 17 日(金) |
【テーマ】 |
私から見たロシアの経済、社会 |
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まず、はじめに今回初参加にもかかわらず、多数の諸先輩方を差し置き、僭越ながら本会の報告に筆(タイピングですが)を取らせていただいた失礼の段、何卒ご容赦願います。
さて、今回のテーマは「私から見たロシアの経済、社会」です。講師サンジャル氏の奥様を含む4名のウズベキスタンご出身の方々に旧ソ連から独立した中央アジアからの視点でロシア経済・社会を俯瞰していただいた興味深い内容をお話しいただきました。一部私の主観による勝手な解釈を交えてご紹介させていただきますことをお許しください。
以下、セミナーサマリーをお伝えいたします。
ロシアは原油をはじめとする天然資源に富み、資源価格上昇に伴って、BRICsと呼ばれる新興国に名を連ねて急成長を遂げた。しかし、2008年のリーマンショックによる世界的な経済危機の影響から資源価格が大幅に下落し、石油・ガスに頼るロシア経済の脆弱性から深刻な景気後退を招いた。現在はロシアの知識階層を支持基盤とするメドベージェフ大統領が国際関係・長期戦略を担当し、一般市民が支持母体のプーチン首相が国内経済を担当するいわゆるタンデムによる指導体制となっている。
現在ロシア経済・社会が抱える大きな問題は3点あり、高齢化による労働力不足、汚職の蔓延、インフラの未整備が挙げられる。ロシア人口は昨年こそ15年ぶりの増加に転じたものの、ソ連邦崩壊後減少が続いており、今後の経済成長には労働者不足が問題である。統計上では、2002年から2008年にかけて200万人の移民労働者がロシアに来て就労したことがあるとされているが、実際には1,100万人に上ると見られる。移民労働者は、主に建設作業などのいわゆる低賃金労働者に従事している。ただ、このような旧ソ連構成国を中心とした移民労働者に対しては、ネオナチグループなどから移民排斥による殺人事件も多く報告されている。これは、ナショナリズムのほかに、不況により単純労働者が労賃の安い外国人に仕事を奪われていることが一因とも考えられる。
次に、労働生産性の低迷が経済成長を著しく阻害する要因として働いていることが指摘できる。付加価値商品の製造が少なく、政府も競争力の弱い企業を政府が支え続けていることがある。
3点目はインフラ整備が遅れている点である。先の競争力のない企業の保護に見られるように政府は国内産業保護に重点を置いており、海外企業からの資本受け入れが進まず、設備投資や技術革新が進んでいない。また、企業の経営手法の近代化も遅れている。
結論として、ロシア経済の先行きは予断を許さないものの、長期的視点に立てば、潜在的な成長力を持った国であり、メドベージェフ大統領が進める改革による成長が期待できる。
以上が概要ですが、この会のなかでの話から、私がふと思い起こさせられたのは、バブル経済下の日本が3Kといわれるきつい、汚い、危険な仕事への労働力を東南アジアやイランの人々に求めたことであり、その後バブル崩壊によって帰国させることになった多数の人々がいたことです。最近ではブラジル人労働者がこの問題に直面しています。背に腹は代えられないとはいえ、外国人労働力活用のあり方がこのようなご都合主義で良いのかと改めて考えさせられた次第です。また、ウズベクからロシアはどう見えるかという外部の人間が必ず抱く疑問には、やはり必ずしも悪い感情ではないものの、複雑な思いもあることを答えていただきました。長らく支配を受けたロシア帝国・ソ連邦から解放され、旧宗主国といえるようなロシアと90年代以降唯一の覇権国となったアメリカとの綱引きの中で揺れる複雑な多民族社会をおぼろげながら少し理解できたように思います。
次に、この会に初めて参加させていただいた感想として、この会に参加されている方々の多くがこれまで日本の高度成長に多大な貢献をされて来た世代の方々であり、(失礼ながら)おそらくビジネスの一線から退かれた今でも世界に対して見識を広げようという意欲を持たれていること、その知的好奇心が将来の私に果たしてあるだろうかと感嘆させられました。一方で、今回は若い世代の出席がなかったようです。私がことし3月にはじめてウズベキスタンに旅行したときには、日本人大学生の複数のグループ(名古屋大学・早稲田大学ほか)にもお会いしたので、在京の若い世代も潜在的には参加希望の方があると思います。このような草の根の交流会のさらなる発展を願わずにはいられません。
最後に、私のように突然参加させていただいた新参者を暖かく迎えてくださった皆様に厚く御礼申し上げます。
(寄稿者:齋藤 和久)
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2010.07.16 |
第 103 回トークの会報告 |
【講 師】 |
サマコワ・イバラット |
【日 時】 |
平成 22 年
7 月 16 日(金) |
【テーマ】 |
キルギス共和国の現状 |
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今回のテーマはキルギス。今年4月にはバキエフ大統領が国外脱出、6月には民族衝突が起こるなど、キルギスで混乱が続いていることもあって、関心がもたれ、今回は嶌会長をはじめ、30名以上の方の参加があり、大変な盛況となった。
講師はキルギス中部ナルイン出身のサマコワ・イバラットさん。2005年から千葉大学に留学し、今年5月から都内の旅行代理店で仕事をしている。そして、今回のキルギスの混乱のなかで、「在日キルギス人協会」を立ち上げ、代表として犠牲者の救済、避難民の支えなどに取り組んでいる。
話はまず、キルギスの現状から始まった。人口は約543万人、首都ビシケクは約100万人。宗教はイスラム教スンニ派が75%を占める。言語はキルギス語とロシア語が公用語になっているが、南部ではウズベク語も使用されている。そして他民族国家で、80以上の民族が国内に住んでいる。
つぎに話は、最近の話題に移っていった。
2010年4月の反政府暴動では、バキーエフ大統領がカザフスタンを経てベラルーシに逃亡、オトゥンバエワ元外相が暫定政権を発足させた。しかし、主に国内南部では暫定政権への抗議活動などもあり、国内情勢は不安定で混乱状態が続いていた。
また、その背景として、2005年の「チューリップ革命」がある。これは当時のアカエフ大統領が汚職に手を染め、さらに一族支配をするなど、独裁体制をしいたことで国民の不満が爆発し、アカエフが国外に逃亡した。
こうして2005年から2010年にかけて、政府の汚職が増え、権威主義的な抑圧体制になり、失業率の増加、教育の悪化、犯罪率の増加など国民の生活水準も悪化していた。
また国際的には、キルギスはロシアとアメリカのパワーバランスの上に成り立っている。キルギスには中央アジアで唯一の米軍が使用できる基地があり、アフガニスタンに対する米軍の重要な拠点になっている。そしてロシアで教育を受け、ロシアに近いとされているオトゥンバエワは、米軍基地について「当面は現状のままにする」と述べたという。
以上のような事情を背景に、2010年6月に民族衝突がおこったのだ。6月11日から14日にかけて、オシュで、キルギス系の人たちとウズベク系の人たちが衝突し、犠牲者の数は200人から700人に達した。その原因は今もはっきりしていない。キルギスは他民族国家であり、キルギス系人たちとウズベク系の人たちは仲良く共生していたし、彼女もなぜこうなったかわからないという。しいてあげるならば、
(1) 統一したアイデンティティが欠如した市民国家形成の問題点
(2) 前バキエフ大統領の側近(次男と弟)による計画的な挑発
(3) 外からの第3の力(アメリカまたはロシア?)
が考えられるという。いずれにしても、真実は薮の中なのである。
そして、今後のキルギスの課題としては、
(1) 国家作り
(2) 民主化
(3) 経済的な自由化(市場経済への移行)
が考えられるという。
最後に「在日キルギス人協会」が取り組んだ難民救済の具体的な話などもあり、会場の人たちの共感をよんだ。
今回のテーマは、大変政治的なテーマであったが、ウズベキスタン人からも積極的な発言があり、真剣に考えようという雰囲気で、とても意義ある「トークの会」になった。
(寄稿者:水野 慶三郎)
※本原稿の内容は、報告者の話をまとめたものであり、内容の正否の確認(検証)はしておりません。
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2010.06.23 |
第 102 回トークの会報告 |
【講 師】 |
サリエル・バティルさん(東京外国語大学) |
【日 時】 |
平成 22 年
6 月 23 日(火) |
【テーマ】 |
ウズベキスタンにおけるイスラム教 |
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2009年交換留学生として東京外国語大学に留学中のバティルさんに久しぶりにウズベキスタンをテーマに語っていただきました。
1991年独立前はモスクに行くこともお祈りすることも、ジャナザ(死者を埋葬する葬式の儀式)も禁じられていたが独立後はその禁止は解かれ、7世紀の始めにコーランに書かれた全部のことができるようになった。ただし近代化の影響で、銀行制度等は変化し以前は利息が禁止されていたが、現在では利息のない銀行はない。
また大きく変化したのは女性の服装で外出時に顔を隠すことなどもだんだんなくなり、スカーフをまとわない、肌を露出するなど、一般的な服装が日常的にみられる。これは宗教的には男性が働き、女性は家の中でという風習が変わりつつあり、女性が仕事を持ち社会進出し、また現代の歌手の影響で若い女性がアイドルを真似して肌の露出(肩、足、胸)が多くなったことも一因。これには父親の権力の低下という影響もあるかもしれないという。
また禁酒という面でも変化があり、近年アルコール飲料消費の増加があげられている。
1993年、94年を境にスンニ派の世界が緩やかになってきた。イスラムの社会はコーランにより結束しているがテレビやネットの影響が少なくない。我々日本人がウズベキスタンのイスラム教は「ゆるい」と感じるのはこのような点ではないかと納得する。
ロシア支配の影響や独立後の民主主義の男女平等などウズベキスタンの国内の変化はあるものの、2500万人多民族の国民の中でウズベク人の90%はイスラム教である。
民族としての伝統とアイデンテティーの源になっているコーランに基づいた儀式(子供の出生時の儀式)は家庭または病院に場所が移っても受け継がれているそうです。
そしてこの世で最後の儀式「ジャナザ(葬式)」はもちろん執り行われます。
外から見てゆるいという印象はほんの一部のことであり、時代により多少変化はあるにせよウズベキスタンのイスラム教は新しい風の中で若者に受け継がれていると感じました。
(寄稿者:木下)
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2010.07.16 |
トークの会100回を超えて |
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この4月にトークの会は100回になりました。ささやかな会ですが、いろいろな方の支えがあり、様々なことがありました。
■ スタートはおばさま方のウズベク留学生への支援から始まった。
ウズベクの国費留学の制度が事情により中止となった後も、バイトなどで留学を続けようと頑張ろうとしていた留学生たちがいました。少しでも応援したいと、有志のおばさまたちが留学生の話を聞いて小遣いを少しでも上げたい、ということで留学生の話を聞く会をスタートさせました。
私は嶌会長から「何もしなくていいから、いるだけでいいから」という彼のよくやる説得により責任者ということになりました。
その頃のトークの会は、あの狭い事務局の部屋で、ウズベク留学生が、きちんとした日本語で自分の考えを話すことだけで、感心、感動していましたし、奥さんに巻き込まれた親父さんたちもスキー、テニス、ボーリング、もちろん飲み会と課外活動も盛んでした。みんなで楽しんだ諏訪のスキー、温泉、そばのイベントを率いた會田さんが、その夜入院、帰らぬ人になったのはつらい思い出です。
■ おばさま方の苦労
ウズベキスタンに限らないのですが、おばさまたちから苦労話を聞かされました。「若者はドタキャンが多い」「何かしてあげても感謝の言葉がない」というものです。講師を頼んだ時は、「いいですよ」というのだが、間際に念のため連絡すると、「用事があります」と言われてしまうケースがしょっちゅうありきりきり舞いさせられるのでした。
どうも、はなから、「その日は用事がある」といって断るのは申し訳ない、あるいは宗教的な考えから、豊かな人からの支援は当然、ということからくるのではないか、と思うのですが、どうでしょう。
そういう苦労が続き、応援する留学生たちも卒業したことから、もうやめましょう、とおばさまたちはおっしゃるのですが、ウズベキスタン協会の中でトークの会がなくなるのはどうもうまくないぞ、ということで私が実務を引き継ぎ、留学生のムニサさんとコンビを組んで実行力のある小泉さんがもっぱらイベント担当として運営を継続したわけです。
■ トークの会の運営の変化
ある時ムニサさんから電話があり、「ドタキャン発生、寮で隣に住むイランの留学生でもいいでしょうか?」と言ってきました。毎月ウズベキスタンの話を聞くよりもいいだろう、と賛成しました。以来、年に一回以上はウズベキスタンの話にしますが、アジア、またはほかの国の留学生の話を聞く会にしてきました。
現在もジャスルくんが幹事役をしていますが、各国の話に対してウズベクの事情などを述べて話を拡げてもらっています。
イベントは私も小泉さんも年をとってエネルギーが不足してきましたので、最近はご無沙汰です。そういえば、安倍元首相の昭恵夫人がたまに来られて、2次会で学生に「国会見たい?」「見たい、見たい!」ということで、首相官邸、国会、自民党会館、など見学させていただいたのが、最後のイベントでしょうか。何カ国かの学生が参加しましたが、政治の中枢を直接見られたことの感動はわれわれの想像以上のものでした。
留学生による民族楽器の演奏会はイベントと言えるかもしれません。ロシアのバラライカ、ウイグルのムカム、キルギスのコムズ、口琴などハイレベルな演奏会をやれたのは貴重なものでした。また、トークの後にギターで自国の曲や歌を奏でる学生も何人かいました。
■ 留学生とのトークで感じること
・「なぜ日本を選んだの?」という答えはこの10年で変わりました。かつては「おしん」でした。今は「アニメ」です。
・「日本に来て感じたことは?」いろいろありますが、印象に残るのは、「日本の学生は家族のことを話しませんね。私たちは家族のことを1時間でも2時間でも話しています」という言葉がありましたが、物の豊かさの影に人間の絆が細くなっていることを実感します。
・ウズベキスタンの留学生との付き合いが多いのですが、ほかの国もこの10年の変化は著しいものがあるのだと実感します。10年前の留学生は、明治維新の日本の留学生もかくや、と思われる国造りの気概を感じたものですが、今は、自分のことをしっかり考えている学生がおおくなっているように感じます。
・日本は奨学制度が充実して多くの優秀な留学生を受け入れています。しかし、心配なのは彼らの将来です。日本での努力を活かせるところに行ける学生は必ずしも多くありません。日本の若者も深刻な就職事情ではありますが、もっとせっかくの優秀な留学生が日本と自分の国へ貢献してもらう機会を与えないと、将来の世界の中の日本の位置づけが心配です。
■ さて今後の運営は?
トークの会の運営は多くの方の好意によって支えられています。場所を提供し、遅くまで付き合ってくださるJFの宮崎さん、受付や運営に協力してくださる方、講師を紹介してくださる方、多くの方によってなんとか支えられてきました。
海外から来る若者たちは、自分たちの国の理解を深めていこうという気持ちがあります。われわれのほうにも、苦労しながらも発展する国々の未来を支える若者たちを理解したいという気持ちがあります。草の根でのこういうトークの場面はもっと必要だし、面白いし感動します。
ということで、今後も続けたいのですが、今は、「面白い会なのでもっと多くの人が参加しないかな?」「どなたかに運営を引き継ぎ、若返らせてくれないかな?」と思っています。
(寄稿者:トークの会責任者 檜山 彰)
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2010.05.26 |
第 101 回トークの会報告 |
【講 師】 |
ダオ・ドク・ヴィエトさん(一ツ橋大学経済学部2年) |
【日 時】 |
平成 22 年
5 月 26 日(火) |
【テーマ】 |
ベトナムを知ろう |
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ロシア生まれハノイ育ちのヴィエトさんは風貌が日本人にそっくり、国費留学生として来日3年、大学でも成績優秀のひとりとして評価が高いそうです。今回は主に「ベトナムの歴史」を中心にお話をして頂きましたのでその概略をまとめてみました。
ベトナムの歴史:
・938年頃まではベトナムは中国(漢、隋、唐)から強い支配を受け、百越(いろいろな民族)の蜂起や反乱が多発したが、中国軍を破り、長期独立期を迎えた。
・その後1858年までの約900年間(李朝、陳朝、黎朝、阮期)の独立王朝期と呼ばれた。李朝においては、仏教を国家の宗教として普及させたり、ベトナム文化の基礎を築いた。また13世紀から15世紀にかけてモンゴル軍の侵攻があったが王族のチャン・フン・ダオが撃退し国民的英雄となった(注1)。黎朝では儒教が強化され、科挙制度が導入され、法律面でも女性の立場が尊重され、近代的な考え方が取り入れられた。然し、黎期の後半朝廷の権力がだんだん衰退し、南北に分裂した。南は領土を南へ拡大し勢力を強め国際貿易を活発化させた。この頃日本の朱印船がよく訪れてホイアンに日本町ができた。
・(1802〜1945)阮朝はベトナム全土を統一した初の王朝であり、最後の封建的王朝でもあった。この間1858年ベトナムはフランス軍の侵攻により敗北した。
・フランス政府による植民地支配(目的は資源開拓)黎朝、ベトナム側(鉄道・近代的な教育・近代都市の設立)に力を入れた。20世紀前半独立運動を図った愛国者は多数いたが成功したのはホー・チー・ミンだけ。彼は1945年独立宣言をし、国家的象徴として尊敬される。
・その後1954年までの9年間、対フランス戦争が起こり、DienBienPhu戦でフランス軍を敗北させた。
ジュネーブ協定が結ばれたが、再びベトナムは南北に分裂した。
・(1954〜75)20年間、かの有名なベトナム戦争に突入。
北:社会圏(ソ連、中国)に支援され、南:(アメリカ)の援助を受けた。しかし1972(戦争終結、米軍が撤退)、1975年(統一へ)という結果となる。
・多数の犠牲者の輩出、国土の荒廃などにより再統一したものの経済の建て直しは困難を極めた。
配給制を導入—生産の停滞—食料危機を招く。然し、1986年政府が開放改革経済を打ち出した。いわゆるドイモイ政策である。
その結果外資の導入、天然資源の輸出などにより、少しずつ効果が現れGDPも急成長してきた。2006年WTOにも加盟した。
・現在日本側から円借款提供の表明によりハノイ市からホー・チー・ミン市まで新幹線建設構想が出されている。実現しても数々の問題が懸念されるが、他方経済活性化に繋がる希望でもある。
(注1)この期間において、元軍の侵攻は3回ありましたが、チャン・フン・ダオが元軍を撃退したのはその最初の2回でした。3回目の前にはチャン・フン・ダオは既に死去しました。
ベトナムの現状:
・格差社会(都市部と農村部、所得の広がり、教育問題(改革が必要、不備目立つ)
・大学教育(カリキュラムの遅れも感じられ、教育理念の欠如もあるが、今後の改善に期待)
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20年間、大国を相手に過酷な戦いを経験したベトナム、そして見事に自らの手で独立を勝ち取った ベトナム、国を建て直すということがどんなに大変か手に取るように伝わってきました。いくつもの大国に勝つことが出来た強さの秘密は一体どこにあるのだろうか。益々興味を感じるところです。現在エネルギーに溢れ、活気があるベトナム。しかしまだ克服しなければならない問題が多々あるようです。ヴィエトさんに「ベトナムのいいところは?」と質問すると「誇り高いところかな」との答えでした。昔、日本も明治維新において政府が断行した「教育制度の改革」のお陰で今日の繁栄があるのではないでしょうか。同様にベトナムも先ずは「教育制度を充実させる」ことから人材育成に取り組むべきではないかと思いました。ベトナムは日本との関係もよく開放経済を推し進め、今後更なる発展が期待できる国になるのではと応援したくなりました。
ヴィエトさんのような若い優秀な人材が新しい社会や国を作るのかもしれないと今後とも関心と期待をもって眺めていきたいと思っています。「がんばれベトナム 」
(寄稿者:片岡 利子)
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2010.04.27 |
第 100 回トークの会報告 |
【講 師】 |
鄭 梃甄 |
【日 時】 |
平成 22 年
4 月 27 日(火) |
【テーマ】 |
自閉症児を対象とした美術教育指導法に関する実践的研究 ─日本と台湾における調査を基盤として─ |
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トークの会も今回の4月27日の会で、何と100回めを数えることとなった。
この記念すべき会の講師は、東京芸大でドクターを取得した台湾の鄭梃甄(ていちょうけん)さん。ドクターの称号を持つ女性芸術家とあって、いかにも〇〇女史といった厳しい風貌の女性を思い浮かべていたのだが、こちらが勝手に想像していたのとは違って、笑顔が優しい楚々とした美女だった。
鄭さんの本業は石彫で、最近は『手』をテーマにした作品が多いという。作品の写真を何枚か見せて貰ったが、とてもすばらしい作品群だった。
そうした彼女だが、台湾の病院で、自閉症児と関わりを持ち、自閉症の子どもたちに美術教育を続けている。その研究を東京芸大の博士論文にまとめたのだが、その研究成果のエッセンスを今回のトークの会で話してもらった。
鄭さんは8名の自閉症児をを対象に、何枚も絵を描かせながら、絵がどういう風に変化して行くかを研究した。その手法のポイントとしたのが、子どもたちが絵を描くうちに変化する過程で表れる『対比』という考え方。たとえば、「一部固定、一部変化」という対比。ある子どもは初期の作品と後の作品を比べてみた時、構図は同じだが、モチーフは変化させていた。ほかにも、着色の有無(着色した部分と着色しない部分)、主題と背景(主題は同じだが背景を違えて描く)、絵に登場する事物や人物の大小、拡大と縮小、空間軸と時間軸、そうしたものを対比させながら、自閉症児たちの心の動きを研究したもの。
子どもたちの描いた絵を実際に投影し、具体的に絵の変化を対照して見ることができ、大変興味深い話だった。芸大でも大変ユニークな研究論文だったようだ。
今後、どうい道を歩むかとの質問に対しては、自分の専門である石の彫刻を続けながら、自閉症児を対称にした美術教育の研究を続けて行きたいとのこと。今後の彼女のますますの活躍を期待したい。
日本では「学際」という分野で、さまざまな成果が見られるが、鄭さんの研究も、精神科医、児童心理学者などと共同で進めることによって、また新たな研究成果が出てくるのではないだろうか。
(寄稿者:水野 慶三郎)
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2010.03.26 |
第 99 回トークの会報告 |
【講 師】 |
チン・クワン・ドウエン |
【日 時】 |
平成 22 年
3 月 26 日(金) |
【テーマ】 |
ベトナムからみた日本、日本へきての体験 |
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今回の第99回留学生とのトークの会は、3月26日(金)の午後6時半より、8時過ぎまで、聴衆20数名で通常の浜松町の会議室で行われました。講師はベトナム出身のチン・クワン・ドウエンさん(男性1982年生まれ、ハノイの近くのハイホン出身)で、ベトナム大学で電子技術を専攻、卒業後税関手続きの仕事を経て、日本の国際協力機構の発展途上国の青少年に対する研修制度を利用して、多くの希望者から選抜された同国研修生6名の一員として、日本企業で工業包装、梱包の研修中とのことです。
その機構は日本の企業の協力の下運営されおり、発展途上国への支援としては根についた有効な制度として運営されているとのこと。また、今回の紹介者である国際協力機構で彼らの世話をしている中村さんより、補足の説明が要所要所でありました。
以下に彼の今回の題材である、ベトナムの紹介、日本とベトナムの違い、彼の日本に対する感想等の概要を列挙します。
・ベトナム社会主義共和国は面積約33万平方キロメートルで、人口約8,000万人以上で首都はハノイであり、民族はキン族(越人)約86%、他に53の少数民族があり、宗教は仏教(80%)、カトリック、カオダイ教他である。北部は亜熱帯気候に属し、日本と同じように四季があるが、南部は熱帯に属し、一年を通して日本の夏のような気候である。又、大自然豊かで各地に観光地があり、高原都市のダーラットは林芙美子の「浮雲」の題材になった。
・日本とのかかわりは子供の頃に見た漫画のドラえもんから始まった。埼玉県在住で、日本の今年の寒さのおかげで、数回、雪をみることができ、感激した。また、川越の祭りで、山車を引っ張ることができ、いい思い出になった。日本の食べ物では、納豆が苦手だが、梅干しは、OK。
・同国は物価が安いが、賃金も高くなく、大体1.3〜1.5万円程度である。今は研修生として、生活費を得ているが、その大半を、本国の家族に送金をしている。また、部屋代は会社が負担している。大まかな話、日本の物価は高いので、スーパーで1回買い物をすると、本国での1カ月分の金額になる。
・日本語学習は同国での3カ月と日本に来て、研修で3カ月間のみであり、研修ではみっちりと日本語を勉強した。また、漢字が苦手だが、現在はインターネットの翻訳サイトで、日本、ベトナム語の変換ができ、非常に便利である。
・研修制度は日本より、韓国のほうが充実しており、数多く行っているとのこと。
・日本では、工業は殆ど機械化されているが、本国では、未だ、人力が主であり、日本の昭和20〜30年代の頃に匹敵するのでは。また、普通の企業の勤務時間は午前8時から午後5時までが多いが、一般的に昼休みが長く、1時間半程度あり、家族と食事をする人が多い。
・英語も分かる人が多いが、現在はフランス語はあまり通じず、現地進出の日本企業も多いので日本語も人気が出てきている。
最後に、ギターの弾き語りで、ベトナムの古い流行歌を熱唱され、その素朴さに感激しました。
個人的に感慨深かったのは、補足をされた彼の紹介者の国際協力機構の中村さんの研修生と発展途上国にかける熱意と、ドウエンさんが、決して多くない収入の中から大半を家族に送金しているということです。自炊中心とのことですが、栄養失調にならないか心配です。
また、帰国後、友人と共に日本で学んだ技術を生かして、会社を興したいとのことで、その夢が実現して成功し、同国の発展に寄与されることを祈っています。
(寄稿者:吉谷 孝一)
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2010.01.22 |
第 98 回トークの会報告 |
【講 師】 |
舒 寧 |
【日 時】 |
平成 22 年
1 月 22 日(金) |
【テーマ】 |
私から見る現代中国人の価値観 |
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「講師」中国からの留学生・舒寧(ジョネイ)さん。
2010年最初のトークの会は中国吉林省長春市出身で高校3年から来日、現在早稲田大学社会科学部3年に在学中の中国人留学生を迎え有意義なひとときを過ごしました。
現在大学で研究しているテーマは「中国自動車産業の再編」、副専攻として「データ分析」というテーマ・スタディにチャレンジしており、Bridge Asia Foundationの奨学生として、毎日充実した生活を送っています。
プレゼンはまず
(1) 中国人のことをどう思っているか?
(2) 日本に留学している中国人に対して、どのようなイメージがあるか?
という二つの質問から始まりました。
彼女の(1)のイメージとしては「お金持ちが多い。礼儀作法の良くない人が多い。気が強いが努力している人も沢山いる。社会的責任感がない」等が挙げられました。
また中国には天人合一(てんじんごういつ)という思想があり、天と人とは理(儒教、道教、仏教の考え方)を媒介にして合理的に一つに繋がると考える。しかしこの思想にも弱点があり、「人間の個性が重視されていないこと。個性が出せないこと」が現在の中国人の特徴の一つだそうです。
そして中国人にとって社会的に認識された成功とは「成功=富+地位+功績」の公式で表せる。昨今の国際環境の影響で、多元的になった中国人の価値観は先ずはお金持ちになり、社会的地位を高め、さらに社会的評価をもらおうとしており、意外と単純に見えるそうです。今後の課題としては多元的な価値観を持てるように努力をすること。具体的には「物質文明を求めるだけでなく、精神への追求も大切にする。自分の個性をもっと大切にする。自分の良さを忘れず、外国に関する勉強をし、よりよい生活環境をつくるように努力する事」だそうです。
ジョネイさんの将来の希望としては「大学院に行き、卒業後は中国へ帰り、農業飼料販売会社の経営者になりたい。その為には先ず日本の企業運営方法を勉強し、自分の会社を興し、やがて利益が出るようになったら、貧困や難病で苦しんでいる人々を支援したい」と大きな夢を語りました。
フロアからは「日本の学生をどのように思いますか?日本の男性と結婚したいと思いますか?」等の質問が出ましたが、「国が豊かであっても質素な生活をしている日本人の学生も多い。しかし勉強よりも就職の事に熱心すぎる。私は日本の男性との結婚は躊躇する。なぜなら、文化の違いと言語の壁で言いたい事がうまく伝えられない。また結婚をしても仕事を辞めたくないので、私にとっては中国人と結婚した方が安心する」等と現実的な答えが返って来ました。
ジョネイさんのトークからは起業という大きな夢に向かって毎日を精一杯生きている様子が窺え、勇気を貰いました。理念と現実をうまく調和させ、是非その夢をかなえてほしいと思っています。
(寄稿者:浅海 茂)
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