留学生とトークの会活動報告



●留学生トークの会のご案内

この会はNPO日本ウズベキスタン協会の留学生支援事業として、留学生と多くの会員および一般の方々とともに相互の文化交流を図り、理解を深め、人と人の和を広めることを趣旨としております。
内容としてはウズベキスタンの最新情報、経済、歴史、生活、あるいは留学生の日本での体験などさまざまなテーマを学生たちと相談し、また、参加者の希望に添って決めております。
アットホームな雰囲気の中で、いろいろな大学で学んでいる学生たちの豊富な知識、素朴な感性そしてパワフルに情熱的に語る姿勢に私たちも元気をもらい、また大きな感銘を受けることも度々です。
2009年留学生とトークの会活動報告(2010.01.11更新)

2009.12.16 第 97 回トークの会報告
【講 師】 檜山理事
【日 時】 平成 21 年 12 月 16 日(水)
【テーマ】 生粉打ち蕎麦と嶌信彦とのトーク

 12月16日(水)「トークの会」恒例の年末行事「蕎麦打ちの会」が行われ、25名の方々が参加しました。
 蕎麦打ち暦15年の興津さん、助手の小林さんが直径60cmの木鉢で粉をこね、1kgの包丁でトントントンと仕上げていく。それを高原さんはじめ3名の女性が手際よく茹でる。
 「今まで食べたなかで、いちばん美味しい」
 「蕎麦ってこんなに美味しいものだったんですね」
 「ウマイ!ウマイ!」と駆けつけ3杯ならぬ3枚の方も…。
 「今年は例年よりも甘くて美味しい」の声も。

 それもそのはず、今年は茨城県の真壁町から採れたての実を取り寄せ、前日に蕎麦屋さんで引いてもらった新鮮そのもの、しかも6kgの蕎麦粉を使用。
 ウズベキスタン人の5名の参加者は、次のような感想を寄せてくださいました。
 「蕎麦打ちを見るのは初めてで面白かったし、美味しかった」
 「ウズベキスタンでも蕎麦は採れるが、クレープみたいに焼いたり、実をそのまま茹でて料理の付け合せにして食べています」
 「サマルカンドには日本蕎麦屋さんはありませんが、韓国料理屋さんで食べられます」
 「本日は参加者が多く賑やかですが、通常の会にも来てください」
 また、白鴎大学での嶌会長の教え子のカイケイさんは、
 「東京の厳しい社会で働く私にとって、暖かな雰囲気の中で美味しいお蕎麦を食べ、故郷の上海に帰ったような気分です。今年一番元気をもらった日です」と感激の様子でした。

 嶌会長とのトークタイムでは、参加者からの「普天間基地の移転問題」の質問がありました。それに対して、吉田茂、鳩山一郎等の戦後日本の政党政治の流れや外交政策、そして、アメリカのオバマ大統領と鳩山首相の考え、2010年11月に迎える日米安保条約50周年にからみ、普天間基地問題の早期解決はないのではないかとの予測を示されました。
 また、11月27日に開催された「経済と文化のクロスロード〜ユーラシア・中央アジアフォーラム」にふれ、今後中央アジア地域でウズベキスタンの取るべき役割等について、東西冷戦終結、東欧諸国の民主化運動等の例を挙げ示唆されました。その話にウズベキスタンの若者たちはおおいに刺激を受けたと語っておりました。

 最後に世話役檜山さん音頭の手締めで会は終了。この会をご準備、お世話くださった方々に心から感謝します。
(寄稿者:上野 志津代)
2009.11.30 第 96 回トークの会報告
【講 師】 デキ・チョーデンさん
【日 時】 平成 21 年 11 月 30 日(月)
【テーマ】 ブータンのグロスナショナルハッピネス

 今回のトークの会では、ブータンからの留学生デキ・チョーデンさんをお招きして、「ブータンとGNH(グロス・ナショナル・ハッピネス。国民総幸福量とでも訳すのでしょうか)」というテーマでお話をうかがいました。デキさんはブータンの高校を卒業した後来日し、東京外大で日本語をブラッシュアップした後、2007年に一ツ橋大学法学部に入学し国際関係論を学んでいます(大学3年生)。自然を愛し、ブータンを思い浮かべて山に登るのが好きという心優しい女性ですが、将来は外交官を志望とはっきりした目標を持ち、日夜勉学に励んでいるとのことで、意思の強さも持ち合わせているように見受けられました。
 デキさんのお話はまず故国ブータンの紹介から始まりました。お話を聞く合間に、ブータンを最近旅行された参加者が撮影された写真が回覧され、ヒマラヤ山脈に抱かれた峻険な山国、その自然の中で生活する住民、いかにもチベットと思わせる仏教寺院、昔日本の田舎にはどこにでもいたような素朴な女の子の様子などを視覚を通しても実感しました。ブータンは、九州とほぼ同じ面積の国土にわずか66万人の住民が居住し、主要産業は農業・林業にとどまる(後の話に繋がりますが)経済的には開発の遅れた国です。民族の80%はチベット系でチベット仏教を信仰しています(残りはネパール系で、民族問題を抱えています)。
 現国王は5代目ですが、前代、前々代の国王が聡明で、鎖国状態にあったブータンを国際社会に開くと共に、国の発展・近代化の努力を行ないました。そしてその過程で経済開発至上主義に疑問を持ち、自ら考え提唱したのが本日のテーマGNHです。考え方が示されたのは相当以前に遡ります。1976年には非同盟小国会議の場で、国王は、GDPより精神的な豊かさが大切であると主張しこのGNHの概念により国を運営することを提唱しています。デキさんの説明によれば、国王は、従来の(先進国による)GNPの増加を目指した経済開発は貧困問題、南北問題、環境破壊、伝統的文化の喪失に繋がっており、代わって、人間の幸福の増大(GNH)を目指すべきだと考えられたとのことです。その為の主要な柱として、(1) 継続可能で公平な開発、(2) 自然環境の保護、(3) 有形・無形の文化の保護、(4) 良い統治の4項目が示されました。
 幸福(度)は数量的に計れないものと一般的には考えられていますが、デキさんによれば、ブータンでは1999年に至って国立の研究センターが設立され、数量化に取組んできており、下記の9点が幸福の要素と考えられているとのことです。
 (1) living standard(基本的な生活)
 (2) cultural diversity(文化の多様性)
 (3) emotional well being(感情の豊かさ)
 (4) health(健康)
 (5) education(教育)
 (6) time use(時間の使い方)
 (7) eco-system(自然環境)
 (8) community vitality(コミュニティの活力)
 (9) good governance(良い統治)
 デキさんからは、GNPでは社会の進歩、お金の量は測れるけれども、幸福の度合いは測れないということが強調されました。交通事故が起こった結果、GNPが増加しても意味が無いのではないか、家族のための家事の時間、孫と穏やかに過ごす時間はGNPには反映されていないではないかなどの例も引かれました。上記9項目は憲法の条文にも組み込まれていて、ブータンはこれらの項目の改善を進めることによって、国民の幸福度を押し上げていく考えのようです。
 デキさんの説明が一通り終わると、会場は質問と意見で溢れることになりました。出席者のほとんどの方が発言されましたが、それは、テーマが我々の人生観そのものに結びついているからでしょう。 議論は限りなく続きました。

☆ 「GNHを具体的にどう測ろうとしているのか?」、「絶対評価が出来るものなのか?」、「国際比較は出来るのか?」といった類の疑問がまずあげられました。デキさんからは、具体的な手法まではうかがえませんでしたが、上記の9項目が相対的に改善していくことを確認することで、国全体のGNH増加が図られるのが重要ということでした。
☆ 昨年ブータンを旅したという参加者の方は、村で会った人から「私は幸せでない。いつかは死ぬと考えると幸せとは言えない」と話されたことを紹介されていました。政府が90%の国民は幸せと感じていると発表しているとの話に対する疑問の投げかけでした。私は、個人的に「死に対する恐怖まで考慮して幸福量を測るとなると、これは大変なことだ。人間の価値観はいろいろ違う筈だから、幸福度を絶対量で測ったりすることは難しいのではないか」と改めて感じました。政府が政策として、GNHを使っている側面にも留意すべとの意見が他の参加者から出されました。
☆ また、ブータンの家庭を実際に訪問した経験のある参加者の方からは、ブータンの家庭では、家族の中で「幸せとは何なのか」ということが日常的に話されているというお話がありました。今の日本は、家庭内で会話は減っているし、話題も経済的な話になってしまっているのに比べて、幸せというものを哲学的に話しているとのことでした。他の参加者からは、背景として、チベット仏教への帰依との深いかかわりが指摘されました。仏教が生活に深く浸透していて、精神面の話が受け入れられやすいのでしょう。
☆ 若干失礼とも思えましたが、デキさんに対し率直な質問もありました。「デキさんはこの豊かな日本と不便なことが多いブータンとどちらに暮らすのが幸せと思いますか?」
 答えは素早く明確でした。「勿論、ブータンです。家族と一緒に住むことは本当に幸せなことだと思います」
 これに、ウズベキスタンから留学してきているジャスさんが呼応して発言しました。「私も、勉強のために日本滞在は長くなっていますが、やはり、ウズベキスタンに帰って仕事をしたいと思います。日本関係の仕事が出来れば最高ですが…」
 そう、昔の日本人留学生も同じ意見だったでしょう。日本は物質的に豊かな国ですが、故国になるわけには行かないでしょう。

 いろいろな議論がなされましたが、幸福度(量)を国の政策のメジャーに使い、行き過ぎた開発には一定のブレーキをかけている国が現実に存在することは大きな驚きでした。個人的に総括すると、精神的なものである幸福度(量)を絶対的に捉えるのは、難しいけれども、物質面と精神面のバランスを取りながら、何が幸福なのか、個人の価値観に基づいて考えることが大切という極めて常識的な結論に至りました。そして、これからは、物質的な幸せの追求はそこそこにして、もっと心の面を大切にした時間の使い方をしたいなと感じた次第です。
 考えるきっかけを作ってくれたデキさんに心から感謝したいと思います。

■ブータンの国勢
 1.面積:46.5千平方キロ(九州の1.1倍)
 2.人口:約66万人(07年、世銀資料)
 3.民族:チベット系(約80%) ネパール系(約20%)
 4.言語:ゾンガ語、公用語:英語
 5.宗教:チベット系仏教、ヒンドウ教
 6.政体:立憲君主制
 7.産業:農業、林業
 8.GNP:1170百万ドル
 9.輸出:電力、珪素鉄

(寄稿者:櫛田 正昭)
2009.10.30 第 95 回トークの会報告
【講 師】 ノザゼ・イヴァネさん
【日 時】 平成 21 年 10 月 30 日(金)
【テーマ】 北方領土問題

 今回のトークの会は、グルジア出身のイヴァネさんによる「北方領土問題」についてです。イヴァネさんがこの問題を取り上げた理由として、母国グルジアとロシアの間にも領土問題として南オセチア問題が存在していることが挙げられました。また、南オセチア問題、北方領土問題は共にスターリン時代に始まったという共通点も挙げられました。
 日本は島国という事もあり、ロシア、中国、韓国などと領土問題を抱えているにも関わらず、どこかのんびりした印象を自分は持ってしまいます。
 ほとんど影響力がないにしても国際法において、北方領土は日本の領土であるという事は、日本が有利に交渉を進めていきやすいように思われますが、そうなっていません。イヴァネさんによれば、ロシアは少子高齢化が日本よりも進んでおり、原油しか(それとマトリョーシカ(笑))生産できるものがない状況だそうです。原油価格が80ドルを切ると苦しい状況になるため、日本に擦り寄ってくる傾向があり、そこを上手く領土交渉に利用できればいいのですが、ロシアの外交能力が日本の外交能力をはるかに上回っているため、領土問題が進展しないそうです。
 イヴァネさんの説明後のトークの中で、北方領土問題解決のチャンスはソ連崩壊時にあった、という話がありました。ナチスドイツの復活を恐れてヨーロッパ側が反対していたにも関わらず東西ドイツが統一できたのは、ソ連崩壊の「お祭り」に乗っていけたから、という側面があるそうです。話はズレてしまいますが、「経済の失われた10年」にしても現在の「金融危機」への対応にしても、日本はどうしても対応が遅れ、後手に回っているように感じます。
 イヴァネさんの故郷グルジアでは、ロシアに攻めて来られて以来、反ロシアの感情が強くなっているそうです。スターリンはグルジア出身であるにも関わらず、グルジアを攻撃するなど、グルジア人にとって人気がない人物になってしまいました。ウズベキスタンのアミールティムールとは対照的だなと思いました。
 イヴァネさんの北方領土問題のお話の後、最近グルジアを訪れた会員の毛利様から写真を交えて、様々なお話がありました。大統領が噴水好きという事で、旧ソ連圏では珍しい噴水が見られたり、温泉が結構ある事や、言葉の感じが日本語に似ている事等、グルジアをとても身近な国であるかのように感じる事ができました。
 今回発表されたイヴァネさんは、とても流暢な日本語で、しかも北方領土の歴史について、とても詳しく勉強されていました。私自身、様々な事を勉強でき、とても楽しいトークの会となりました。
(寄稿者:塩野 泰大)

2009.9.14 第 94 回トークの会報告
【講 師】 フェルザ・ショマハメドヴァさん(ウズベキスタン 千葉大学留学中)、グエン・テイ・ゴック・アインさん(ベトナム 千葉大学留学中)
【日 時】 平成 21 年 9 月 14 日(月)
【テーマ】 格差問題について
 今回のトークの会は「格差社会」をテーマに、ウズベキスタンのフェルザさんとベトナムのアインさんが発表を行い、その後、参加者のみなさんで話し合うという形式で行われました。
 まずは、ウズベキスタンのフェルザさんの発表です。格差を表す指標として「ジニ係数」を用いた説明がありました。私はジニ係数について全く知らなかったのですが、0〜1の数値で表され、0に近い程格差が小さく、1に近い程格差が大きいという事だそうです。発表によると、日本は「0.321」で世界で98位、同様にウズベキスタンでは「0.368」で80位、ベトナムは「0.370」で78位だそうです。
 思っていた程違いがないな、と感じました。最近テレビで格差が広がっているという話をよく聞きますが、自分の身の回りではそれほど実感したことがないため、ジニ係数のような数値で見ると日本の現状を客観的に知ることができて、おもしろいなと思いました。
 そこで、インターネットを使って自分も少し調べてみたのですが、数値が正しくフェルザさんの発表に用いられていたものと比較できるかどうか分かりませんが、2000年時点の日本のジニ係数は約「0.275」だったそうです。フェルザさんの「0.321」がいつのデータであるか忘れましたが、単純に比較すると日本の格差は広がっているという事になります。
 また2000年時点のその他の国のデータとしては、アメリカ「0.37」、イギリス「0.34」、ドイツ「0.275」、フィンランド「0.25」、デンマーク「0.22」となっており、やはり北欧諸国の格差が小さいという結果でした。
 フェルザさんは教育関係の仕事を目指しているという事で、格差と教育の関係についても、よく分析されていました。収入の低い親を持つ子供は教育の機会を与えられず、その結果、子供の将来も貧困に陥る、そして孫も…というように貧困のサイクルにはまってしまうとなかなか抜け出せないのではないか、という話でした。
 ウズベキスタンでは裕福な家庭では家庭教師を雇う事ができるため、教育環境が整い、良い学校に進学できる可能性が高いそうです。そして高校生の10%程度にあたる大学予科高等学校から大学への進学率が59.2%であるのに対し、残り90%が通う職業専門高等学校から大学への進学率は5.3%だそうです。また貧困家庭では親の健康が悪く、子供が進学をあきらめ、バザールで働かなければならない状況になる事もあり、教育の平等、向上には格差是正が必要であると感じました。
 続いて、ベトナムのアインさんの発表です。ベトナムはかつては、国民皆平等で格差は無かったが経済が伸びないという問題があり、ドイモイによる市場経済化で経済は伸びてきたものの格差が拡がってきた、というのが現状だそうです。都市部と農村部での格差が大きいという事で、これは中国でもよく言われており、どの国でも問題だなと感じました。ベトナムでもウズベキスタンと同様に格差の拡大が教育、医療に影響を及ぼしており、政府も農民への支援や学校教育の公平化等の対策をとっているそうです。このような政策は日本でもよく聞く事で、やはりジニ係数を比較しても分かったように、日本もウズベキスタンもベトナムも「格差」という事では、大きな違いはなく、同じ問題を持っているのだなと思いました。
 フェルザさん、アインさんの発表の後には、参加者の皆さんから、いろいろな意見がでました。その中で、所得収入が低くても豊かな国もある、という話がでました。日本、ウズベキスタン、ベトナムの3国では、日本の収入が一番多いが、「格差」はともに存在している。という事は、経済を成長させて収入をあげるだけではなく、教育、医療等、平等でなければならないところは平等に、そして敗者復活のある競争、精神的に安らげる景観、文化の保護等も大事ではないかと感じました。
 今回、発表されたフェルザさんとアインさんは語学留学で来られたにも関らず、専門外の「格差問題」についても、とても詳しく分かりやすい説明をされていて、とてもすごいと思いました。帰国されてからも、きっと大活躍されることと思います。貴重な発表、ありがとうございました。
(寄稿者:塩野 泰大)

2009.7.13 第 93 回トークの会報告
【講 師】 タベト・アブディラフさん
【日 時】 平成 21 年 7 月 13 日(月)
【テーマ】 モロッコと私と日本
 講師のタベトさんはモロッコの高校を卒業後、日本語勉強の目的で来日。その後、平成16年に東京工業大学情報工学科を卒業、さらに東京大学の情報処理工学研究科の修士課程に進み平成18年からは、みずほコーポレート銀行の金融商品開発部門に在籍。最近は空手一級も取得という、異色の経歴の持主です。
 今回は、最近、日本人海外旅行者の間でも、だいぶ注目度の高まっている、「モロッコ」についてのお話でした。
 とはいえ、一般の日本人にとって、モロッコは、まだまだ遠い国。そんな事情も意識してか、タベトさんのお話は、ことさら細か過ぎず詳し過ぎず、判りやすさを旨とした配慮の伺われる内容でした。

 そもそもモロッコは、アフリカ大陸の北西の端、ジブラルタル海峡を挟んで、スペインとはつい目と鼻の先に位置し、地中海を間にしてヨーロッパとは至近の距離にあるため、アフリカの国でありながらも、古来、ヨーロッパ、とりわけ、スペインやフランスなどとは深い関わりをもち続けてきた。
 ただ、文化圏としては、8世紀以降、一貫してイスラム圏に属し、現在も、イスラム教を国教とする王制(立憲君主制)の国にて、隣国チュニジア、アルジェリアとともに「マグレブ(日没する地)三国」と呼称されている。
 国土面積は、日本よりも一回り以上大きいく、その風土は、中央を東西に走るアトラス山脈を境に、北の地中海側と、南のサハラ砂漠側とでは大きく異なる。
 民族面では、北部中心に居住のアラブ系と、南部に居住者が多い先住ベルベル人で人口の大半を占め、民族間対立は殆どない。
 ヨーロッパ近くに位置しながら、文化的にも、民族的にも、また風土や自然の面でも、ヨーロッパとは大きく異なるこの国のもつ、ある種「魔性の魅力」に惹かれ、数多くの欧米諸国の作家や芸術家たちが同国を訪ね、かつ、はまり込んでいる。

 タベトさんの母国モロッコについて、タベトさんの説明を参考にしつつ大雑把ながらまとめてみると、こんなところになるでしょうか。
 首都ラバト、商都カサブランカ、古都フェズ、同マラケシュ、等々。その地名の語感からも、何とも云えぬ、エキゾチシズム、異邦感が漂ってきます。そんな国からの、「異邦人」タベトさんが、遠路日本に来て、大銀行に勤め、「金融商品の開発」に携っているという。そのギャップには、正直、何とも不思議な気分でした。
 イスラム教は、確か「金貸し業」を禁止していたのではなかったか。そんな趣旨、流れのなかでの質問も、数件ありました。
 「金融商品の開発に携ることは、コーランの教えに、全く抵触しません」
 タベトさんは、あっさり、さらりと答えてくれました。ある意味、時代の最先端を突っ走る業務に携りながら、いつかは、母国でイスラム金融関連の仕事をやりたい、というタベトさんの言葉に、モロッコの将来と、私の知らなかったモロッコを見る思いでした。
(寄稿者:松原 真夫)

2009.6.26 第 92 回トークの会報告
【講 師】 Chathushika Ranawakaさん
【日 時】 平成 21 年 6 月 26 日(金)
【テーマ】 仏教国スリランカの女性

 今回の講師のチャトウシカさんはJICAスリランカプロジェクトで1年働いた後、コロンボの旅行会社で働き、現在は立教大学の観光研究科修士課程で勉強中である。チャトウシカさんはスリランカの文化、教育、仕事、結婚、そして紛争について流暢な日本語で話してくれた。

──文  化──
 スリランカはポルトガル、オランダの植民地化された経験を持ち、1948年にイギリスから独立を果たした。ちなみに1972年、セイロンという名前からスリランカに改称された経緯がある。現在のスリランカには大きく分けて3つの民族が混在する。シンハラ人75%、タミル人15%、ムスリム人5%。シンハラ語とタミル語が公用語であるが、イギリスの植民地となっていた事から英語が一般的に通用し、シンハラ・タミルの両民族を繋ぐ言葉として使われている。
 宗教的には最大民族のシンハラ人が仏教を信仰する(キリスト教を信じているシンハラ人もいるが)一方で、タミール人はヒンドゥー教を信仰しており、このことは多民族、多宗教国家にありがちな衝突の原因となっている。

──教  育─
 教育に関しては熱心で、小学校、中学校は学費が無料で識字率も高い。上級生になっても親が子供を学校まで送り迎えをすることが多いそのため、我々日本人にとってはよく見かける光景だが、小さな小学生が一人で電車に乗って通学している姿を見てチャトウシカさんは驚いたらしい。
 それだけ教育熱心な一方で高等教育環境はあまり恵まれているとは言えない。大学への進学を許されるのは上位3%という狭き門。比率は女性の方が優性で、チャトウシカさんもその一人。

──仕  事──
 チャトウシカさんはJICAで1年働いた経験を持ち、出来れば教職に就いて欲しいと願っていたご両親の想いに反し、日本への留学の前はコロンボの旅行会社で働いていた。スリランカの仕事環境は男女差別が無いというのが特徴で仕事が出来れば上席への登用もあり得る。一方女性は通常夜遅くまで働く習慣はない、というのが大きな特徴。一般事務職が通常夕刻には終業となり、残業も無いのが普通。
 旅行会社勤めだったチャトウシカさんは仕事熱心で、先輩男性をも使う立場になり、状況によって夜遅くまで働く事が多かった。あまり帰りが遅くなると近所の人にいぶかしがられる事も多く、チャトウシカさんのご両親も世間体をよく口にしていたとの事。

──結  婚──
 スリランカ人の結婚には2つの大きな特徴がある。1つめはスリランカにはインドほど厳格ではないものの、ソフトなカースト的な階級意識があること、もう1つは重要な要素は生まれた年月と時間を基礎とする占星術で相性を測ること。
 カーストは仕事の選択にはあまり影響を及ぼさないものの、結婚に関しては違うカーストの人と結婚する事は基本的に許されない程の重きがある。また個々人の占書による相性判断も非常に重きを置かれ、他の条件が揃ってもこの相性判断が悪ければ破談になるとのこと。
 スリランカも以前に比べて恋愛結婚も増えてきたが、まだまだ伝統的な方式によるお見合いが主流らしい。今回の講師のチャトウシカさんもこれまで何度もお見合いをアレンジされたものの、海外への留学をしたいとの想いもあり結婚が実現しなかったが、ついに理想の相手が見つかり、この8月スリランカで結婚式を挙げる予定とのこと。

──内  戦──
 2009年5月、20年を越える年月にわたり継続してきた内戦が終結した。内戦の原因には諸説あるものの、スリランカ北部に多いタミル人が分離独立を求めた事から発生したと言われている。スリランカはもともとシンハラ人の国家であったが、イギリス植民地時代に紅茶のプランテーション栽培のためにインドからタミル人の大規模な移住を強制し、複数民族が混在することとなった経緯がある。
 国際社会における支配国家の自分勝手な振舞いが非支配国家における不幸の原因となるのは現代に通ずる縮図と言えないだろうか。

 チャトウシカさんは話の内容も非常に整理されていて優秀な雰囲気が見て取れた。強い意志と明るい性格もトークの会を非常に盛り上げてくれたと思う。スリランカのサリーを着ての雰囲気も、7つの世界・自然遺産があるスリランカを身近に感じる良い機会だった。機会があれば是非一度訪ねてみたい。
(寄稿者:長谷川 敦)

2009.5.19 第 91 回トークの会報告
【講 師】 Umetbaeva Kalyimanさん(現在東京藝術大学修士2年生。研究対象は口琴)
【日 時】 平成 21 年 5 月 19 日(火)
【テーマ】 キルギスの伝統音楽コンサートとトーク

 コムズという3本弦の楽器を携えてカリマンさんが登場しました。
 最初は、三味線に音が似ているかなと一瞬思いましたが、メロディーが流れると、「全く違う」まさに中央アジア・キルギスの楽曲でした。明るくさわやかで、思わず聞き入る日本人には「耳新しい」メロディーです。
 1曲目の演奏が終わってカリマンさんのトークが入ります。コムズは、キルギスで一番愛されている、大事な楽器。3本の弦のうち、真中の弦の音が一番高いところが、他の楽器(三味線、ギター等)と大きく違うそうです。演奏法は右手の使い方に特徴があり(5本指全部を使っているように見える)、手のパフォーマンスが見事です。
 2曲目は、アクロバティックな演奏の曲。カリマンさんの頭上で、右に左に楽器(コムズ)が踊っているようでした。
 次に取り出したのが、手のひらに収まりそうな鉄製の口琴。テミルコムズと呼ぶそうです。とても不思議な楽器です。カリマンさんが口に咥えてその端を指ではじくと、とてもおもしろい音が出ます。キルギスでは、女性や子供がメッセージを伝える手段としても使われるそうです。 カリマンさんが「これから皆さんにメッセージを送ります」と実演してくれました。最初は、「みなさんこんにちは」。これは伝わりました。次に「私は宇宙人です。ビヨーーン」。これが皆さん分からなくて「私は52歳です」と聞こえたようです。でも不思議な音色で、確かにちょっと宇宙人的かもしれません。
 次に取り出したのが、木製口琴。ジガーチオオズコムズと呼ぶそうです。木製あるいは竹製で、とても壊れやすくて、3つの中で扱いが一番難しい。日本だとアイヌ民族が同じような楽器を使っているそうです。それから平安時代に日本で口琴が流行していた、という伝説もあるそうです(一体どこから伝わったのでしょう?)。
 そういえば、カリマンさんの本日のコスチューム(民族衣装風)もアイヌ調に似ているような気がしました。カリマンさんのトークの中でも、日本に来てからアイヌの人々と触れ合いがあったことや、アイヌとキルギスとの共通点を話されました。キルギスは山々が美しい。厳しい自然の中で、遊牧民の生活にとってなくてはならない娯楽となっているのがコムズの奏でる伝統的音楽。昔ながらのものは、ソロ演奏が主だそうです。
 そして次は、キルギスの歌。昔から歌われているもので、「ブランコに乗った女の子の歌」。アカペラ(伴奏なし)で「生の歌声」がとっても素敵でした。
 もう一度、コムズを手に取って「青い鳥と白い鳥」の曲。これは、明るく軽快な曲でした。コムズの弦は昔は羊の腸で出来ていたが、今はナイロン製。胴体の部分は一本の木(松)で、作られているそうです。持参されたカリマンさんご愛用のコムズもキルギスの名匠に作ってもらったもので、とても大事にされているそうです。コムズの楽曲習得で苦労するところは、楽譜がないこと。先生について直接習う(口頭で教えてもらうしかない)そうです。
 最後の曲は「車輪」。(機関車のようなものの?)車輪を初めて見た人が感激して作曲したそうです。車輪の力強い動きが連想される、パフォーマンスたっぷりの迫力ある演奏でした。
 ところで、カリマンさんの日本語は、習って9年目だそうですが、とっても素敵です。当日は参加者も多かったので、後半はトークが盛り上がったのですが、質疑応答も含めて、会話に全くよどみがなく、しかも不要な婉曲表現や誇張のない「ストレート・トーク」が、とてもよかったです。コムズのプロフェッショナル奏者であるカリマンさんの生演奏を中心とした、とても素晴らしい「トークの会」でした。

[後記] 口琴のことを初めて知った私は、早速インターネットで少し調べてみました。するとカリマンさんが紹介されていた「日本口琴協会」のホームページに次のような記述を見つけました。「…日本口琴協会では、埼玉県大宮市(現さいたま市)の氷川神社東遺跡から出土した2本の平安時代の口琴の…」これが平安時代に日本で口琴が流行っていたという伝説か。因みに私は大宮在住で、氷川神社は毎年初詣に訪れる神社です。
(寄稿者:太田 健爾)

2009.4.28 第 90 回トークの会報告
【講 師】 ダヴィド・ゴギナシュヴィリさん(アジア・アフリカ大学国際関係学部日本学科卒業。現在慶應義塾大学大学院・政治研究科修士課程在籍)
【日 時】 平成 21 年 4 月 28 日(火)
【テーマ】 ソ連時代のグルジアとソ連崩壊後のグルジアについて

 講師のゴギナシュヴィリさんは、グルジア共和国の首都トビリシにあるアジア・アフリカ大学の国際関係学部日本学科を卒業、今年4月から慶應義塾大学大学院・政治研究科の修士課程に在籍、将来は母国グルジアの外交官にとの夢を持つナイスガイです。
 今回は、昨年の北京五輪のさなか、「ロシア軍、突然グルジアに侵攻」というショッキングな報道で、一躍世界の注目を集めたグルジアに関する講演でした。
 「『グルジア』と聞いても、なかなかピンと来ない」というのが、平均的な日本人の正直な実態ではないでしょうか。実は私自身も、昨年の報道当初は、「確か、スターリンの故郷だったな」といった認識のほかには、何ら具体的イメージの浮かんで来ない場所でありました。私と似たような感慨をお持ちの方も多かったせいでしょうか、今回の参加者は30名を越えなかなかの盛況でした。
 コギナシュヴィリさんからは、先ず、グルジアの歴史・民族・宗教・風土さらには料理等基本的なことについてスライドを交えた説明がありましたが、これらは、本論の「グルジアの近況」を、単に知識としてでなく、感覚的に理解するうえで、随分と役立った気がします。
 美しい自然と風土の南コーカサス地で、古くより、独自の言語(グルジア語)と文字(33の表音文字)を有しつつ、キリスト教(グルジア正教)を奉じ続けてきたグルジア民族は、長らく、旧ロシア帝国とそれに続くソ連邦に併呑され続けていましたが、1991年のソ連邦崩壊を機に、民族国家として独立、共和国体制のもと今日を迎えています。
 その様は、ウズベキスタンなど中央アジア5ヶ国とも軌を一にした姿とも云えましょう。
 ただ、日本の5分の1に満たぬ狭い国土に、もともと、民族・言語・文字・宗教が異なるうえに、親ロシア傾向の強いオセット人やアブハズ人の住む地域(南オセチア・アブハジア)を抱えての独立は、今想えば、多難な前途の予想された独立だったと云えます。
 2003〜04年の「バラ革命」により、若くして大統領の地位に就いたサカシュヴィリが、親欧米路線を鮮明にするに至り、それまで、折あるごとに燻ぶり火を噴いてきた路線対立や、南オセチア、アブハジアの独立の動きに拍車をかけることになったのは事実のようです。
 そんな積み重ねの上に起きたのが、昨年8月の「ロシア軍侵攻」でした。
 軍事衝突の直接の契機については、双方の言い分に違いがあり、断定しかねる面もあるようですが、基本にあるのは、グルジアの上記国内事情と、それに関連した東西(欧ロ)両陣営の石油エネルギーや軍事戦略面での思惑・利害が絡み加わっての対立であることは、間違いの無いところのようです。
 コギナシュヴィリさんの話を聞くにつけ、大国の思惑・利害の狭間で翻弄され苦労を続けて来たグルジアの歴史が、独立後の今もまたここでくりかえされている、そんな思いが湧いてきました。
 そして、将来、外交官になり、母国の外交を担っていきたいというゴギナシュヴィリさんの想いに、心から声援を送りたいと思った次第でありました。
(寄稿者:松原 真夫)


2009.3.24 第 89 回トークの会報告
【講 師】 ヒクマトラエワ・カモラ(タシケント東洋大学卒)
【日 時】 平成21年3月24日(火)
【テーマ】 ウズベキスタンについて
 
 今回の講師は、幹事のジャスルさんの新妻カモラさんでした。
 初めは、ウズベキスタンの祝日・祭りについてのお話でした。ウズベキスタンで最も盛り上がる日は3月21日の「ナブルーズ」だそうで、この日はいつも晴天だそうです。日本も「体育の日」が10月10日だった頃は、いつも晴天になると言われていたように思います。
 ナブルーズでは、コンサートが行われたり、伝統的な料理「スマリャック」等を食べたりするそうです。ここで、その「スマリャック」をカモラさんが準備して下さっていたので、参加していた皆さんで試食をしました。見た目はあんこで、味もあえて例えるとあんこ…。
 「スマリャック」はナブルーズの時に食べるという事なので、ウズベキスタン版の「お汁粉」といった感じでしょうか。程よい甘さがあっておいしく、パンにぬってもいけるなあと感じました。また、甘いにも関わらず砂糖や蜂蜜等は一切使用していなくて、小麦、水、油を煮詰めただけという事に驚きました。甘党でダイエットしたい方には油の量次第ではもってこいの料理かもしれません。
 続いては、結婚式についてのお話です。ウズベキスタンの結婚式の形式は各々の町で違いがあり、ブハラやサマルカンド等では伝統衣装で行われるそうです。カモラさん夫妻の結婚式はタシケントの形式だそうです。
 結婚式は3日間かけて行われ、友人にプラフをご馳走したり、公園に行ったり、各々の家へ行ったり、そしてレストラン等で式を行ったりととても盛大に行われます。今回のトークの会の3日前に、私は友人の結婚式に参加しましたが、ウズベキスタンの結婚式のほうが派手で、自由な感じがしました。司会者もプロの方が行っているらしく、テレビのバラエティ番組の司会者のようです。途中ダンスを踊る場面があり、踊っている人に対して周囲の人がお金を持たせるという習慣もあるそうです。
 日本では儀式の際などにお金を裸で渡すことに多少違和感があるため、お金に対する考え方にも違いがあるのかなとも思いました。異なる点もあれば共通の点もありました。ブーケトスにウェディングケーキへの入刀、そしてケーキをお互いに食べさせるなどなど。ブーケトスを受け取った女性は早く結婚できると言われている事も日本と同じようです。
 結婚式には日本から高坂さんが出席されており、「瀬戸の花嫁」を熱唱されている映像も見る事ができました。歌は国境に関係なく、みんなが共感し合える雰囲気で結婚式にピッタリでした。
 レストランでの式の後には花婿の家に移動し、おばあちゃんからお祈りの言葉をいただいたりします。ウズベキスタンではお年寄りを敬うという慣わしが浸透していますが、今日の日本ではどうかなと考えさせられました。
 また、別の日には女性だけが集まり、花嫁は顔を隠した衣装で親戚達からプレゼントをいただいたり挨拶をしたりするそうです。人と人との繋がりをとても大切にしている雰囲気が伝わってきました。
 こちらはさきほどのレストランの式とは異なり、ウズベキスタン伝統の行事で、日本では見る事のできない映像で新鮮でしたが、時間の都合で今回はこの辺で……また別の機会で続きを見てみたいです。
 今回は祭り・結婚式を通して、ウズベキスタンと日本との共通点、相違点を知ることができました。今回は、レストランでの式の模様が主だったため宗教の違いはそれほど見られませんでしたが、レストランの式前後ではより大きな違いが見られると思います。
 最後に、ジャスルさん、カモラさん「Unutilmas kunlar」(忘れられない日々)のお話ありがとうございました。いつまでもお幸せに!!
(寄稿者:塩野 泰大)


2009.2.16 第 88 回トークの会報告
【講 師】 シエラリさん(国際交流基金招聘日本語教師研修生,国立タジキスタン言語大学日本語教師)
【日 時】 平成 21 年 2 月 16 日(月)
【テーマ】 タジキスタンについて
※ 当日JR京浜東北線の事故で、講師や参加者の足に影響が出て、会の始まりが遅れた。また、当日は約30数名くらいが参加していたが、三島や仙台から遠路わざわざこられた方もおられた。

1 嶌会長あいさつ
 「留学生とトークの会」もこれまですでに87回を数え、いろいろな国の留学生に話をしてもらってきた。今回は、ウズベキスタンの隣国だが、タジキスタンは初めてで興味ある話が聞けると思い、楽しみにしている。

2 タジキスタンについて
 タジキスタンは人口約700万人、国土面積約14万3千平方km(北海道の1.8倍)を抱え、農作物は綿花・米・麦が採れる。産業は水力発電及びアルミニウムが盛んである。
 首都はドシャンベで約60万の人が住み、政治や経済並びに学問の中心である。ドシャンベとは月曜日と言う意味で月曜日にバザールが開かれたことに由来する。
 公用語のタジク語で教育もタジク語で行われている。

 タジキスタンは旧ソ連からの独立後内戦が5年続いた。これはタジキスタンが旧ソ連時代から地域性が強く、コミニズム、イスラム、デモクラシーなどの勢力がお互いに覇権を競っていたためで、このことが独立後の発展の妨げとなってしまった。
 1997年に和平合意が成立したが、その後も不安定な情勢は続き、1998年にはタジキスタンに国連政務官として武装勢力の武装解除の任務に当たっていた元筑波大学助教授の秋野豊さんがテロに遭い亡くなるという不幸な出来事が発生した。

3 パミール高原について
 パミール高原はタジク語で「世界の屋根」の意味であるが、ここを東西に連なるワハン回廊は別名「仏教回廊」と言われるくらい仏教遺跡が多く残る。また、この回廊にはイスラム以前の宗教遺跡が残り、現在も神聖な場所として大事にされている。
 パミール高原に住む人々の多くはタジク人ではなくパミール人といわれる様々な民族であり、渓谷ごとにに異なる言語が話されている。いずれもペルシャ語系だが、彼らの言語はタジク語より古代ソグド語に近いと言われている。
 パミール高原ではシーア派の分派のイスマイール派が信仰されており、アーリイから続くイマームの存在など教義や宗教儀礼が一般的なイスラーム社会とは違っている(タジキスタンはスンニ派が多数派である)。
 パミール高原西部は川沿いに渓谷がいくつもあり、比較的緑が豊富で農業が盛んである。特にここでは綿花、野菜、蜂蜜がたくさん採れ、アフガニスタンとの国境の町ではマーケットが開かれ、アフガニスタン人と交流がある。
 またこの地域は温泉が多く、病気に良く効く聖なる場所として大事にされているほか、角に特徴のあるマルコポーロシープがおり、海外からハンターが高い狩猟許可料を納めてでもやってくる。
 タジキスタンは鉱物資源が豊富であると旧ソ連時代言われて来たが、詳細なデータが独立時不明になり、その内容が分からなくなった。今後国際機関等の協力で独自に調査をすることになろう。もっとも著名な鉱物資源としてルビーがあるが、これは国外持ち出し禁止になっている。

4 そのほか
 タジキスタンでは現在50名くらいの学生が大学で日本語を勉強しており、行事などで日本語のおとぎばなしの劇や餅つきなどして、日本の文化紹介を行っている。また、在タジクのJICAなどの機関の職員やその家族と交流を図り、実際に日本語を使う機会としている。
 シエラリさんは言語学者になろうとドイツ語などを勉強してきた。しかし子供のとき父親がたびたび日本について話してくれたので、日本を知りたいと思い、独学で日本語を勉強し、大学進学後本格的に日本語を学んだ。
 タジキスタンでも日本語を勉強している人は増えてきているが、学んだ日本語を生かす仕事がないので、なんとか日本の協力で生かせる仕事を作って欲しいと願っている。
 講演後、持参したギターでタジキスタンとパミールの歌を披露してくれました。

【後記】
 私は2006年9月にタジキスタンをドシャンベからホジャンドまで陸路で縦断するツアーに参加した。
 曇天の日が多く、やや寒く遠くの山々の頂はあまり望めなかったが、イスカンダル・クル湖に行った日は運良く晴天で、アレクサンダー大王軍が見たと言う風景を見ることができた。
 タジキスタンは国土の93%が山地であるが、山間地の道路は冬季の降雪等で舗装が破壊されていて補修が追いつかない箇所もかなりあった。
 大都市のホテルの設備は良く、ホジャンドのシノホテルの部屋は広く快適だった。
 ソグド人の遺跡で有名なペンジケントは、ウズベキスタンのサマルカンドから近く、ウズベキスタン周遊コースに組み込まれることも多く、タジキスタンのほんの一部だが覗くことが出来る貴重な所となっている。なお、ペンジケントのバザールではウズベキスタンとの違いを実感できる。
 パミール高原の特にワハン回廊地区は独立以前、地理的特殊性、アフガニスタン領が中国国境に迫り出しており、シルクロード大事なルートの一つにもかかわらず足を踏み入れることが出来なかった所だ。
 今回、シエラリさんから現地のお話が聞け大変良かった。特にパソコンの画面で空の藍さが印象的だった。
 これからはこの方面の旅行も楽しみである。
(寄稿者:中村 達郎)


2009.1.27 第 87 回トークの会報告
【講 師】 川端良子先生(東京農工大学国際センター准教授)
【日 時】 平成 21 年 1 月 27 日(火)
【テーマ】 アラル海の環境問題

 アラル海の環境問題は「20 世紀最大の環境破壊」と言われ、昨年秋の広報誌でも大きく取り上げています。今回は、中央アジアの水環境問題をテーマに研究されている当協会々員の川端先生に「アラル海の縮小と現状」について、映像によりわかりやすく解説していただきました。

 先生の説明を要約すると…

 アムダリア・シルダリアの二大河川が流入するアラル海は、かつて世界で 4 番目の面積を誇ったが、流入水量の減少により急速に縮小、特にアムダリアが流れ込む南側の大アラルの湖面は 1960 年代に比べ 10 分の 1 になった。これはソ連政府の政策で、1950 年代に始まった農地開発、綿花生産に特化した大規模な灌漑農業による両河川からの大量取水が原因である。
 その結果、湖水の塩分濃度の上昇による漁業の壊滅、周辺地域の塩害、下流域の砂漠化、残留農薬による飲料水汚染など深刻な環境問題を引き起こした。今日の事態は開発当初から予想されていた。アラル海問題を世界が知ることになったのは、1988 年に発表されたアメリカに亡命したロシア人ミクリンの論文による。
 アムダリアの流入水量が激減した大アラルの復活は今となっては不可能である。干上がった土地で天然ガスを採掘し、カザフ経由でロシアに輸出ている。カザフスタンはシルダリアの流入する小アラルだけでも守るため、両アラルの境に堰を設けた。小アラルでは河口付近で漁業が行われるようになり、湖岸ではサクサウールの植林が進んでいる。
 汚染飲料水による健康被害を改善するには、使用している農薬を人体に安全な化学肥料に変更しなくてはならない。灌漑システムの効率を上げることも必要で、一部ではあるが用水路壁面のコンクリート化が行われている。問題解決には地道な取り組みと国際的協力が欠かせない。

とのことである。

 ソ連の経済的分業体制の中で押し付けられた形でスタートしたウズベキスタンの綿花生産だが、現在では生産量で世界第 5 位、輸出は世界第 2 位と、国を象徴する産業となり、国章にも綿花が図案化されています。
 世界の国々は経済発展のために多かれ少なかれ自然環境を犠牲にしてきました。アラル海の環境問題は経済的恩恵を優先にした大規模開発によってもたらされたものです。壊された環境を修復することは至難なことです。自然環境と調和のとれた開発、アラル海問題は環境問題の象徴として、今後とも注視していかねばならないと認識を新たにしました。

 先生の一言、「農業条件に恵まれない国が農業に依存し、農業に適している国が農業をおろそかにしている」と、後段はどこの国かは言わずもがな。

 川端先生は 1997 年京都大学農学研究科修了(農学博士)。専攻は環境影響評価・環境政策、1992 年から中央アジアのウラン汚染、アラル海の水問題に取り組まれています。また、農工大の国際センターは同大学における国際交流及び活動を支援する中心として設立されたものです。

【結び(川端良子先生から一言)】
 今回、私の研究を中心に発表させていただきありがとうございました。皆様からのご意見を伺うことができ、今後の活動について、もう一度考え直すことが必要ではないかと思うようになりました。環境問題の解決のためには、科学的な側面だけではなく、政治・経済的働きかけが重要だと感じておりました。今回のセミナーにてさらに痛感した次第です。特に、理科系の研究者の情報発信力は弱く、自己満足に陥りがちであることを痛感いたしました。今後は、ウズベキスタン協会や留学生たちの力を借りながら、もっと情報発信できるよう努力していこうと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
(寄稿者:金尾 祥彦)
 
 今回からトークの会の幹事としてジャスル君が加わりました。美人の花嫁カモラさんも参加して、今後のトークの会の運営が楽しみになりました。
(監事:檜山 彰)

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